早いもので、2025年も残り1ヶ月となった。今年はブログを書きまくるぞおお!と思っていたが、意気込みだけで終わってしまいそうな感じがしていて少し残念だ。 その理由を考えてみると色々ある(もちろん言い訳含めて)。そもそもなぜ自分はブログを書きまくろうと、もっと広く言えば「頑張ろう」としていたのか。思えば、仕事でもない「やりたいこと」を決めては、なかなか取り組めずに悶々としたことは数え切れないほどある。
ところで、最近ようやく積読の一つだった「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」 を読んだ。どうやら、働いていたら本が読めなくなるのは僕だけではないらしい。この本では、働いていると本が読めなくなってしまう理由を、働く人にとって読書がどのような位置づけとなってきたか、その歴史を明らかにしながら語られていた。
300ページ近くに及ぶ本なのですべてを紹介できない1が、僕の解釈も入れつつ簡単に要点を書くと次のようになる。
- 2000年頃から仕事のアイデンティティ化が進み、自己実現の手段としての仕事、という側面が重視されてきた。
- そして令和の時代は「新自由主義」であり、自己決定と自己責任が重視され、私たちは個として市場価値を高めるように動かされている。
- その結果、「頑張りすぎ」てしまい、本を読む余裕さえなくなっている。
- 「全身全霊」ではなく、複数の文脈を取り入れられるよう「半身で働く」ことが必要なんじゃないか。
誰からも強制されているわけではないのに、なぜか頑張らなければいけないと考えている。まさに自分だな、と思った。自分で勝手に立てた目標が達成できないせいで、勝手にがっかりすることもある。いっそ、そんなこと考えなくていいのにと思うこともある。
なぜ「頑張って」しまうのか
誰からも強制されていないのに、義務感に駆られるのはなぜだろうか。 同書では、「疲労社会」という言葉を用いて説明されていた。
ハン2が名付けた「疲労社会」とは、鬱病になりやすい社会のことを指す。それは決して、外部から支配された結果、疲れるのではない。むしろ自分から「もっとできる」「もっと頑張れる」と思い続けて、自発的に頑張りすぎて、疲れてしまうのだ。(p.246)
この「もっとできる」「もっと頑張れる」と思い頑張りすぎる例として、次のようなことも書かれている。 SNSで他人が成果をアピールしているのを目にし、自分はもっと頑張りが足りないのではと思ったり、疲れているのを悟られないように無理に成果をアピールしたりしたくなってしまったりする状況だ。 僕は何度もこれと同じ状況になったことがある。 同書を読んでいてなぜか少し恥ずかしくなった。
少し脱線するが、僕は去年ついに30代に突入した。 最近知ったが、アラサー世代で陥りやすい「漠然とした不安や焦り」を示す言葉として、「クォーターライフクライシス」という言葉がある。 これは、他者との比較が要因の一つらしい。 これもまた、同書で言及されている「新自由主義社会」によるものなのかもしれないと思った。
休み方は教わらない
僕の感覚では、自分は頑張っているという実感は自分を安心させる。 だが、そもそも頑張っている実感がそのまま実力に変換されるわけではない。 よく言う、アウトプットとアウトカムは違う、という話だ。 それが頭ではわかっていても、なぜか気持ちは落ち着かない。
そんなことを考えていたら、「休むと迷惑」という呪縛 という本を偶然見つけたので読んでみた。
興味深かったのは、休めないのは休み方を教わってこなかったからだということだ。 同書では、次のような構造が休めない状況を作り出していると指摘している。
- 休むための制度や規則は存在するのに、それを利用する側・される側の双方が十分に認知していないこと
- 学校には「皆勤賞」のように、休まないことを評価の対象としたり、称賛したりする制度・風潮がある。そのため、「休むことは悪いこと」という考え方のまま社会人となる人が多いこと
最近書店に行くと休み方に関する本が陳列されているのが目立つ。 休み方を知らず、大人になってから休み方を学びたい人が一定いるという証拠でもあろう。
ここで考えたいのは、誰からも強制されていないのに「頑張らなければ」「努力が足りない」などと考えてしまうことだ。 同書から学んだのは、過去の経験や環境が、自分が意識しないところで影響を与えうる、ということだ。 たぶん、「頑張らなければ」と考えてしまう裏には、「頑張らなければいけない」というある種の呪縛があるのかもしれない。
いずれにしても言えることは、休み方は教わらずに大人になってきた可能性が高いということだ。 だから、「頑張る」「努力」という言葉だけで自分を動かしていては、休むことを忘れ気づいたときには疲れ果ててしまう、ということが起こるのかもしれない。 自分は休み方を知らないと自覚するだけでも、少し肩の力を抜く手助けになるかもしれない。
「本を読む余裕がある」というバロメーター
念のため誤解を招かないように書くが、怠けるのがいいというわけではない。 問題は、「頑張る」という感情論、誰からも強制されていないのに自分を追い込む状況からの脱却だ。 先に述べた通り、たぶん僕は休み方を知らないので、どこからが「頑張り過ぎ」なのかをわかっていない。
僕の場合、本を読む余裕があるか、が一つのバロメーターになるのでは、と思っている。 「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」では、「花束みたいな恋をした」 で、その登場人物が本は読めないがパズドラ(スマホゲーム)はできるということを言った場面が引用されている。 これは僕も同じで、なぜか疲れているとスマホゲームに手が伸びやすくなってしまう。 文中で指摘されていることを簡単に言うと、現代において他者の文脈、すなわち自分の欲しい以外の情報は「ノイズ」となってしまい、「ノイズ」が多く含まれる本は読めなくなっているということだった。 コスパやタイパという言葉が多く聞かれる時代、とてもわかる気がする。
僕は、知らないことを知ったり、わからないことがわかるようになったりと、自分にとって新しい何かを学ぶのは好きだ。 それに、今の自分には必要ではない情報は、後になって役に立ったということは多々あるし、少なからず自分の視野を広げてくれる。 だから、あまり仕事とは関係ない本を読んだり、勉強会やカンファレンスに行ったりするのはとても好きだ。
ここまで考えると、自分が本を読めなくなっている、他者の文脈を取り入れる余裕がなくなっているときは、「頑張りすぎ」ているんじゃないかと考えた。 もちろん、常に余裕があり全く負荷がかからない状態が続く、ということは難しいかもしれない。 しかし、本を読む余裕がない状態がずっと続いているときは、黄色信号が灯っていると考えることができる。
「やらないこと」を決めて余裕を持とう
30代に突入し、仕事も家庭や育児も両立していかなくてはならない。 仕事も育児も超長期戦だ。 常に「頑張らなければ」「努力が足りない」などと思っていては長続きしない。
じゃあどうすればいいのか、というと、先人たちがすでに答えを提案してくれていた。 最近お見かけした記事を2つだけ引用させていただく。
まずやらないことを決める、そして本当にやるべきことだけに目を向ける。 あれもこれもと手を付けてどれも中途半端になるよりは、なにかに集中して小さく成し遂げるほうが絶対にいい。 もし、頑張りすぎず適切に頑張れている状態があるとすれば、自分が注力すべきことが絞り込めていて、他者の文脈を取り入れることができる状態、といえるのではないか。
本当はやりたいけどできないことが多くあって、悶々とすることもある。 だが、やらないことを決めて余裕を持ち、少し本を読むゆとりがあるくらいがちょうどいいんだろう。 本が読めないなと感じているときは、一度自分のやることリストを整理し、やることを絞っていく、そういうことが必要なんだろう。 そんなことを考えた本たちだった。
参考
書籍はAmazonのリンクです。

